最近、神ゲーと名高い「ペルソナ5 ザ・ロイヤル(P5R)」をクリアしました。
アトラスが開発したこのRPGは、単なる娯楽を超えて、人の心のあり方を考えさせてくれる作品です。
僕が特に考えさせられたのは、作中を通して問いかけられる「正義とは何か?」というテーマでした。
今回は、「ペルソナ5 ザ・ロイヤル」という作品を通して僕なりに感じた、正義のあり方についてお伝えします。
「ペルソナ5 ザ・ロイヤル」のあらすじ
物語の舞台は現代の日本です。
東京の高校へと転校した主人公は、理不尽な大人たちが支配する、社会の歪みに直面します。
たとえば、生徒を体罰で支配し権力を振るう教師、自分の名声のために若者の才能を搾取する芸術家など。
そして、そんな大人たちの醜い欲望が具現化した心の世界、「パレス」の存在を知ることになります。
主人公は、同じ志を持った仲間たちと共に、「心の怪盗団」を結成しました。
その目的は、パレスに侵入し、心の歪んだ大人たちの「オタカラ(欲望の核)」を盗み出し、改心させることです。
歪んだ社会を世直しするため、少年少女たちの冒険がいま幕を開けます。
ペルソナ5は、現実社会にありがちな理不尽が濃く描かれているからこそ、とてもリアルに感じられます。
キャラクターに感情移入もしやすいですし、自分の心が強く揺さぶられる感覚がありました。
内面からの改革
従来のRPGの多くは、敵を倒すことで問題を解決してきました。
しかし、「ペルソナ5」が提示した手法は、敵の心に潜入して歪んだ認知を矯正するという、いわば「内面からの変革」です。
欲望の核である「オタカラ」を盗み出されることで、歪んだ認知が矯正されます。
すると、悪人は罪悪感に苛まれ、懺悔するのです。
この一連のプロセスには、常に一つの倫理的な問いがつきまといます。
「他者の心に勝手に踏み込み、認知を強制的に書き換える行為は、許されるのか?」ということ。
客観的に見れば、それは一種の洗脳とも取れる危うい力です。
そして何より、怪盗団の行う「改心」は、決してノーリスクの魔法ではありません。
「廃人化」という、対象者の自我を崩壊させる危険性があるのです。
他者の心に手を加えるという行為は、それほどまでに危ういものといえます。
心の怪盗団が掲げる正義
廃人化の危険性はありつつも、怪盗団の行動を「一種の正義」と肯定できるポイントがあります。
それは、怪盗団の選んだ道が「断罪」ではなく、「更生」へのきっかけづくりだからです。
怪盗団が行っているのは、力による断罪や復讐ではありません。
欲望という霧で見えなくなっていた「良心」を本人に返し、自分の足で罪を償うきっかけを与えているに過ぎないのです。
このプロセスは、言うなれば極限の「説得」です。
現実世界においても、真摯に説得して自らの過ちを直視させた結果、相手が罪の重さに耐えかねて精神を病んでしまうことはあり得ます。
しかし、説得そのものを「悪」と呼ぶことはありません。
被害者を救い出すと同時に、加害者にも「人間としての更生」の余地を与える。
この「断罪なき世直し」というプロセスにこそ、怪盗団の正義があるように感じられます。
丸喜拓人による究極の救済
物語の終盤で、最も考えさせられる展開が訪れます。
それが、最後の敵として立ちはだかる「丸喜拓人(マルキタクト)」との対峙です。
丸喜は、これまでの私利私欲に溺れた悪人たちとは決定的に異なります。
人の幸福を心から願うスクールカウンセラーであり、その行動原理は純粋な「慈愛」に満ちていました。
彼が行おうとしたのは、歪んだ欲望を満たすことではなく、優しさによる「現実そのものの書き換え」です。
たとえば、最愛の母親を亡くした過去を持つ怪盗団のメンバーに対しては、母親が生きている世界を用意する。
目の前で苦しむ人を救いたいという一心から、辛い過去の事実そのものを消し去ろうとしたのです。
「他者のため」という、純粋な善意から生み出された救済といえます。
辛い過去を消し去り、誰もが願った通りの幸せを享受できる世界を作る。
それこそが、丸喜の掲げたカウンセラーとしての「正義」だったのです。
「苦しみを奪うこと」は「成長の機会を奪うこと」
丸喜の作る世界は、一見すると完璧に見えます。
人によっては、「非の打ち所がない素晴らしい行いだ」と感じるかもしれません。
しかし、僕はその救済を目の当たりにした時、一つの疑問を抱きました。
「丸喜の優しすぎる救済は、相手が成長するきっかけを奪っているのではないか?」と。
実は僕自身、周りの起業家たちと比較して、深い劣等感に苛まれていた時期があります。
思うように売り上げが伸びず、立てた目標も達成できず、何をやってもうまくいかない。
心が荒んでいく惨めさは、当時の僕にとってあまりにも苦しい経験でした。
しかし、今の僕ははっきりと言い切れます。
「あの経験は自分を成長させてくれた糧であり、決してなかったことにはしたくない」と。
過去の苦悩があったからこそ、僕は自分自身の心と深く向き合い、成長することができました。
そして何より、あの痛みを知ったからこそ、人の弱さや痛みに対しても、より深く共感できるようになったのです。
もし丸喜の手によって過去を書き換えられ、最初から幸福な道を与えられていたとしたら、今の僕は存在しません。
苦しみを消し去ることは、その先にあるはずの「成長した自分」すらも奪ってしまうのです。
実際、怪盗団のメンバーも最後にこう言っています。
「壁を乗り越えて成長する人のチャンスまで、奪っていいのか?」と。
怪盗団のメンバーも皆、苦しい過去を抱えていました。
しかし、その過去を乗り越えたからこそ、今の自分たちが存在しています。
自分たちの過去を、無かったことにはしたくない。
だから葛藤しながらも、自分たちの正義を信じ、丸喜と対峙する道を選んだのです。
「目の前で苦しんでいる人を救いたい」と思う、丸喜の気持ちは理解できます。
しかし、僕たちがやることは、一方的に相手の苦しみを取り除くことではありません。
相手の力を信じ、壁を乗り越えられるように支援することです。
残酷な言い方をすると、丸喜の救済とは、自分だけが良い行いだと信じ込んでいる、独善的な正義に過ぎません。
怪盗団たちが行う改心とは、全くの別物なのです。
僕なりの正義と優しさ
丸喜の救済を目の当たりにしたとき、僕は自分の信念を強く再認識しました。
クライアントさんと関わる中で、僕が何よりも大切にしているのは、相手の「成長」です。
だから昔から、「魚を与えるのではなく、釣り方を教える」というスタンスを貫いてきました。
求められるままに正解を与え、手取り足取りすべてを代行して、望む結果だけを渡すのは簡単です。
しかし、それではクライアントさんが成長するきっかけを奪ってしまいます。
僕にとっての正義とは、相手が自ら考え、行動し、自分の足でゴールまで辿り着けるように導くことです。
「痛みや失敗から過剰に守る」のではなく、「痛みや失敗こそが学びになる」と伝え、伴走すること。
安易な救済によって成長を阻害するのではなく、相手の力を信じ、壁を乗り越えられるように支援すること。
それこそが、僕なりの「正義」であり、本当の意味での「優しさ」なのだと考えています。
まとめ
正義の形は、人や立場、そして状況によっても変わります。
だからこそ、思考を止めずに「何が本当の正義なのか?」を問い続けること自体に意味があります。
安易な答えに逃げず、葛藤しながらも最適解を導き出すこと。
その絶え間ない問いかけの先に、自分なりの正義が形作られていくのだと、僕は信じています。




