僕は「メタファー:リファンタジオ」というRPGが大好きです。
剣と魔法と様々な種族が存在する、ファンタジーの世界を舞台としています。
メタファーが珍しいのは、「選挙」を題材とした作品ということです。
物語を通して、「主人公」とその宿敵「ルイ」という、対極的な理想を掲げる二人のキャラクターが描かれます。
今回は、主人公とルイを比較しながら、リーダーのあり方を紐解いてみたいと思います。
メタファーのあらすじ
物語の舞台は、8つの種族からなる「ユークロニア連合王国」。
この国では、種族間の格差が深刻で、日常的に差別や対立が絶えません。
そんな中、突如として国王が暗殺されました。
すると、種族や身分も関係なく、国民の信託を集めた者が次期国王となる「選挙魔法」が発動。
次期国王を決める、王権競技会が開かれることになります。
種族の違いにとらわれず、すべての人が平等に生きられる世界を創るため、主人公は選挙へ参加します。
そこで、主人公とは対極的な理想を掲げる、「ルイ」という若き天才軍師と戦うことになるのです。
「主人公」と「ルイ」が目指す世界は、どちらも「格差のない社会」という点では共通しています。
しかし、その中身は正反対でした。
ルイの目指す理想の世界
ルイが目指したのは、チャンスの平等に基づいた「実力主義」の世界です。
種族、身分、血筋という不条理を壊し、力ある者だけが正当に報われ、のし上がれる世界。
合理的に見えますが、その裏には、弱者を容赦なく切り捨てる冷徹な選別が潜んでいます。
主人公の目指す理想の世界
主人公が目指したのは、存在そのものを肯定する「博愛的な平等」の世界です。
種族、身分、血筋、能力の有無に関わらず、誰もが等しく尊厳を持って生きられる優しい世界。
一見すると理想論に聞こえますが、そこには揺るぎない「善」という強さが宿っています。
理想を実現するための二つの善
理想を語ることは誰にでもできます。
しかし、それを正しい形で実現させるためには、大切な基準が二つあると僕は考えています。
・目的の善:理想とする目的地が、自分以外の人々の幸福に繋がっているかという点です。
・手段の善:目的地に辿り着くまでのプロセスで、誰かの尊厳を奪っていないかという点です。
この「二つの善」という基準で見つめ直すと、主人公とルイの決定的な差が見えてきます。
ルイの目的と手段
ルイの掲げる理想は、不条理な格差を壊す「実力主義による平等」です。
それは既存の腐敗を打破するという意味では、ある種の善と言えるかもしれません。
しかし、その本質とは、強者のみが生き残る世界の構築であり、弱者や立ち上がれない者にとっては、救いのない地獄のような場所です。
一部の人間だけの幸福を追求し、その裏で人が犠牲になるのは、真の「目的の善」とは言えません。
さらに、ルイはその実現に向けた手段において、決定的な過ちを犯しました。
自分に従う者は生かし、従わない者は力でねじ伏せて切り捨てるという、恐怖による独裁です。
目的のために相手の自由と尊厳を奪うそのプロセスは、どれほど高潔な理想を語ろうとも、善とは程遠いのです。
主人公の目的と手段
主人公が掲げた理想は、誰もが等しく尊厳を持って生きられる「真の平等」です。
ルイが強者のみを救済の対象としたのに対し、主人公は弱者や迷える者、そして今はまだ立ち上がれない者さえも救済しようとしました。
不条理な差別をなくすだけでなく、一人ひとりが自分の人生に誇りを持ち、尊重し合える社会を目指したのです。
すべての人の幸福を願うその志は、まさに全方位的な「目的の善」と言えるでしょう。
そして、主人公の真骨頂はその実現手段にあります。
彼は力で相手を屈服させ、恐怖で民衆をコントロールするような道は選びませんでした。
貫いたのは、寄り添いや対話という「善なる手段」です。
自らが先頭に立って困難に立ち向かう背中を見せ、一人ひとりの心にある不安に寄り添い、対話を重ねる。
相手が誰であれ、その人の抱える苦悩を無視せず、対等な人間として向き合い続ける。
それは一見すると、非効率な手段に見えるかもしれません。
しかし、目的のために誰かの自由や尊厳を奪わないという「手段の善」を徹底して貫くこと。
この揺るぎないプロセスこそが、人々の心に希望を灯し、恐怖による支配を超えた「自発的な団結」を生み出す唯一の鍵となったのです。
宿敵ルイへの共感と主人公としての葛藤
理性的に考えれば、主人公の目指す社会が真の理想だということは明白です。
しかし、僕は物語の中で主人公として奔走している最中、宿敵であるルイの思想に共感しそうになった瞬間がありました。
ルイが突きつけた残酷な真実
物語の後半で、ルイは主人公に残酷な真実を突きつけました。
この世界の平和は、歴代の王たちが「王剣」という強大な魔法を使い、民衆の抱く不安を無理やり抑え込むことで成り立っていたのです。
本来、一人ひとりが向き合うはずの不安はすべて「王剣」へと集められ、国王一人がそれを引き受けてきました。
国民は魔法に守られ、自らの内なる不安と向き合うことを免れてきたのです。
この世界において不安に打ち勝てない者は「ニンゲン」という怪物に変貌し、自我を失ってしまいます。
ルイが企てたのは、その魔法の縛りを解き、民衆に「不安」を直接突き返すことでした。
不安に飲み込まれ、怪物になった者はルイ自身が討伐する。
打ち勝てない弱者は淘汰され、主体的に生きられる強い者だけが存在する世界。
それこそが、ルイの目指す「力こそが平等」という世界の本質でした。
主人公が直面した民衆の醜さ
なぜ、そんなルイの過激な思想に、僕は共感しそうになったのか?
それは、主人公として命懸けで社会を変えようと奔走しても、民衆の多くが徹底した「他責思考」に染まっていたからです。
状況が良ければ称賛し、少しでも悪くなれば手のひらを返して罵倒する。
自分では一歩も動かず、安全な場所から文句だけを吐き続ける人々。
その醜さを目の当たりにしたとき、僕は妻と顔を見合わせて言いました。
「こんな人たちを、命を懸けてまで助けなければならないのか……」
ルイの所業が悪だとは分かっていても、民衆に絶望し、切り捨てたくなる彼の気持ちは痛いほど理解できてしまう。
ゲームの中の依存的な民衆と、現実社会にいる他責的な人々が、僕の中で重なって見えてしまったからです。
僕も妻も、日頃から「主体性」を何より大切にして生きています。
ルイの定義で言えば、僕たちは自立した「強い者」の側に属するでしょう。
おそらく、彼が作る実力主義の世界でも生き残れると思います。
だからこそ、「良くないことだ」と頭では理解していても、強者の論理であるルイの思想に、共感しそうになったのです。
理想が独裁へと変わるユートピア思考
しかし、ここには恐ろしい「ユートピア思想」の罠が潜んでいます。
ユートピア思想とは、誰もが平等で争いがない、現実には存在しない理想郷を目指す思想です。
その理想が「現実の欠陥をすべて排除した完璧なもの」にすり替わったとき、恐ろしい側面が顔を出します。
ルイが目指したのは、誰もが実力で評価される理想郷でした。
しかし、完璧さを求めるあまり、そこには弱さや依存を一切許さないという強力な「切り捨て」が組み込まれてしまったのです。
ルイの思考は、まず自分の理想を唯一の正解として「絶対化」しました。
すると、変わろうとしない者や依存し続ける者は、理想の実現を阻む「ノイズ」でしかなくなります。
最終的には、理想を実現するためなら、力で相手を矯正したり排除したりしても構わないという、手段の正当化に至りました。
「目的を達成するためなら、どんな強引な手段も許される」と考えた瞬間、リーダーの理想は最悪の独裁へと変貌します。
自分に共感できない相手から「自由」を奪おうとしたとき、それは善から最も遠い場所への転落を意味するのです。
信じるという真の強さ
主人公のあり方は、ルイとは根本的に違いました。
民衆の醜さを知り、激しい罵倒に晒されながらも、彼は「それでも民は変われる」と信じ続けました。
目の前で困っている人を助け、一人ひとりの声に真摯に耳を傾ける。
その愚直なまでの積み重ねこそが、絶望に沈んでいた民衆の心に「希望」という小さな灯をともしていきました。
たとえ時間がかかったとしても、外圧による服従ではなく、相手の内側から「変わりたい」という意志が自発的に生まれるのを、彼は自らの歩みをもって待ち続けたのです。
それは、ひとりのリーダーが全てを背負い民を依存させる道ではなく、国民一人ひとりが主体性を持ち、自分たちの手で理想の社会を築いていく道の提示でした。
自発的に立ち上がった人々が連帯してこそ、真に強固な社会が築かれるのだということを、彼はその歩みをもって証明したのです。
依存的な民衆に絶望し、力による救済を選んだルイの気持ちは理解できます。
しかし、最後まで国民を信じ抜いた主人公の姿、そして自らの意志で歩き出した国民の姿を見て、僕は確信しました。
やはり、主人公の目指す理想の世界の方が、真に強く、そして尊いのだと。
恐怖で支配する「強さ」は、より大きな力に屈した瞬間に終わりを告げます。
けれど、一人ひとりの主体性を信じ、自発的な変化から生まれた「強さ」は、誰にも奪うことのできない、本物の改革となるのです。
僕が目指すリーダーとしてのあり方
メタファーが示すリーダーシップの教訓は、経営や情報発信にも全く同じことが言えます。
僕たちがビジョンを掲げ、人々を理想の未来へ導こうとするとき、必ずルイが突きつけたような「葛藤」に直面するからです。
僕が目指す理想の世界
例えば、僕はWebマーケターとして、中小企業や個人事業主の方々をサポートしています。
集客や販売を支援するのはもちろんのこと、僕の中には一つ、譲れない「裏テーマ」があります。
それが、「教育の力でより良い社会を実現すること」です。
今の時代、ビジネスにおいて情報発信は必須です。
僕たち事業者が、顧客に向けて自らの想い、価値観、ストーリー、そして専門知識といった良質な情報を発信する。
それは単なる宣伝を超え、受け手にとっての「学び」となり、人々を成長させるきっかけに繋がります。
つまり、僕はマーケティングを、単に商品やサービスを広めるためだけのものではなく、人を成長させるための「教育ツール」と捉えているのです。
僕が本当にやりたいことは、この好循環を生み出し、精神的に自立し、成熟した人間を増やすこと。
そして最終的には、「一人ひとりの個性が輝き、互いを尊重し、笑顔があふれる社会」を創りたいと思っています。
これが、僕の目指す理想の世界です。
理想と現実の狭間での葛藤
しかし、現実はそう簡単ではありません。
メタファーの主人公が直面したように、現実にも依存心が強く、何でもかんでも人のせいにする「他責思考」の人は存在します。
・自分では一歩も動かず、安全な場所から不満だけを漏らす人。
・他者へ勝手に期待を抱き、満たされないと攻撃を始める人。
・権利ばかりを主張し、自分の人生の責任を他者に押し付ける人。
・与えられることを当然と考え、環境や他者に感謝をしない人。
・リスクを取って挑戦する人を、匿名性の影から冷笑する人。
特に現代のインターネット社会では、そうした心の「醜さ」が可視化されやすいです。
心の醜い人々を目の当たりにしたとき、黒い感情が湧き上がることは、誰しも経験があると思います。
「こんな人たちいなくなればいいのに…あの人たちが変わればいいのに…」と。
本音を言えば、僕も日々の生活の中で、絶望を感じたり、嫌気が差すことはあります。
でも、僕は思うのです。
その思考こそが、自分が相手を思い通りにコントロールしようとしている「独裁の罠」であり、ルイと同じ過ちを犯しているのだと。
それでも「善」を貫く
真に理想の社会を創りたいと思うなら、主人公のように善を貫くことです。
「他者は変えられない。変えられるのは自分のみ。だから向き合うのは、自分の内面である」
僕が人生の軸としている、「インサイド・アウト」という考え方です。
本当の変化とは、他者からの強制ではなく、その人の内側から自発的に湧き上がるものです。
だから、どれだけ泥臭くても、まずは自分自身が「目的」と「手段」の両方で善を信じ、プロセスを貫き通す姿を見せること。
その「光景」を見せることこそが、言葉以上に雄弁な教育になります。
当然ながら、自分の理想が全員の共感を得られるとは限りません。
ルイを崇拝し、主人公を非難する者がいるように、価値観が違えば通り過ぎていく人もいるでしょう。
ですが、それで構わないのです。
大切なのは、自分の活動を見て心の底から共鳴してくれる「誰か」が必ずいるということ。
幸いなことに、僕も共により良い社会を創っていこうとする仲間や、生き方に共感してくれるクライアントさんに巡り会えました。
たとえ歩みは小さくとも、志を同じくする者たちと手を取り合い、その輪を広げていく。
そんな僕たちの姿を見て、「自分も変わりたい」と自発的に立ち上がる人が、一人、また一人と現れるのを信じて待つ。
この、「自ら行動を起こしながら、他者の自発的な変化を信じて待つ」という善を貫くことが、少しずつ社会を良くしていくのだと、僕は学びました。
まとめ
真のリーダーとは、力や恐怖で世界を正そうとする者ではありません。
自らが「善なるプロセス」を体現し、他者に影響を与え、相手の内側から生まれる自発的な変化を信じ抜くこと。
これこそが、僕がこの作品から受け取った、真のリーダーのあり方です。
「メタファー:リファンタジオ」という作品は、僕たちにその覚悟を問いかけているような気がしてなりません。
僕もそんな良きリーダーになれるよう、日々活動していきたいと思います。
次の記事では、メタファーの物語から学んだストーリーの影響力について解説しています。
合わせてご覧いただけると嬉しいです^^




